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性格類型のマイナーな資料庫。中国語と英語。

【エニアグラム】タイプ6の「自己対立」――Description by 裴宇晶

記事は2本。裴宇晶氏にしてはなかなかのボリューム。
1w9セクシャルの矛盾についての記事もあるので、比較してみるのも面白いと思う。
 

1.

t6の内心には大人(超自我)と子供(エゴ)が住んでいる。大人は常に道徳とルールを監督・制定する。この内在の大人は常に内在の子どもを責め、非難する。子供は罰を避けるために大人の要求に合致したがる一方、自身の本当の意向に従いたい。それから「~べきだ」「でも……」と言って対抗を繰り返す。「私はおばあさんを支えるべきなのだが、彼女が私に依存するのが怖い」「私は法を守るべきなのだが、原則に背くことをするのに迫られていた」「私は組織に忠実であるべきなのだが、自分の前途についても考えなければならない」「私はやらされていた」「私はやむを得ずこうした」「全て彼らのせいだ」……これらの言葉はt6に自己対立を調節する理由を与えている。実際、t6は利害関係に直面した際に自身の信念や原則にふさわしくあることが難しい。この(信念や原則)ためであっても、「人民の名義」の高育良(中国共産党の高潔な党委書記だったが、スキャンダルで懲役18年となる=訳注)が内心の対立によって、自己非難と極めて大きな焦りを軽減させるために花畑を毎日耕していたように、彼らは迷い、気をもむ。
 
6号的内心住着一位大人(超我)和一个孩子(本我),大人总是监督、制定道德与规则,这个内在的大人总是指责和谴责内在的孩子,孩子一方面想符合大人的要求以避免惩罚,一方面又想按自己的真实意愿。于是“应该……”和“但是……”就反复对抗,“我应该扶老奶奶起来,但是我怕她赖上我”、“我应该奉公守法,但是被迫做了违背原则的事”、“我应该忠于组织,但是我也得为自己的前途考虑”……“我是被逼的”、“我是迫不得已而为之”,“都是他们害的”这些话给了6号调节自我对抗的理由,实际上,6号在面临利害关系时他们很难符合自己的信念和原则,尽管为此他们会很纠结、焦虑,就像《人民的名义》中的高育良,内心的对抗使得他每天花园里翻地以减轻自我谴责和巨大焦虑。

上手いこと訳せていない。

「道徳・ルール」という言葉はt1的でもあるが、t1は利害関係に直面したとしてもむしろ自分のそれに固執する傾向にあるだろう。

 

<出典>

www.zhihu.com

(日本時間2017年6月20日12:54掲載)<2022年1月10日アクセス>

 

2.

t6は常に世界は危険だと思っているが、真の危険はt6の心の中にある。

 

六号总是觉得世界是危险的,但真正的危险在六号心中。

ここはt5と共通。

 

t6は常に外への警戒を保っているが、t6が本当に警戒しているのは、自身が悪の道に踏み出したり、王道から離れたりするかもしれないという恐怖である。それで、t6は「良い私」と「悪い私」に自分を分裂させる。

 

六号总是对外保持警觉,但他们真正警觉的是对他们自身可能走上邪路、偏离正道的恐惧,于是他们就自我分裂为“好的我”和“坏的我”。

ここがt6における「矛盾」の根本的原因。

 

t6は自己対立をしているがために、この世界と対立したり、宇宙と対立したりするのである。

t6であるということは宇宙と対立するということであるため、自身が害を被ることを常に恐れ、自身が侵害されたり、自身に背かれたり、自身が傷つけられたりすることを常に恐れている。

 

因为六号的自我对抗,所以六号才会与这个世界对抗,才会与宇宙对抗。

当六号跟宇宙是对立的,所以总是害怕自己受害,总是害怕自己被侵犯,被背叛,被伤害……

流石に宇宙にまでスケールが広がると「分からん」となる人はいるかもしれないが、外界を全く信用していないということか。

 

最後の根源はやはり、我々と自身の本体が失った繋がりにある。我々は自身というこのような内在の権威をこれ以上固く信じない(ことにしている)。

最后的根源还是我们跟自己的本体失去的链接,我们不再确信我们自己这样一个内在的权威。

身体との繋がりを失っているというのもt5っぽい。

 

自己対立の道を踏み出した時、我々は誤ったと思うことになる。いつでも道を踏み外しそうだと常に思うようになり、私心や雑念があり、常軌を逸し、一線を越えようとする衝動があると常に思うようになる。要するに、間違うことを恐れており、"間違う"リスクが毎日あるかのようである。

 

当我们走上自我对抗之路,我们会觉得我们做错了,我们会总是觉得我们好像随时都要走错路了,总是觉得自己好像有私心杂念、离经叛道、有越轨的冲动……,总之怕自己做错事了,每一天都好像有做错事的风险。

誤りを恐れる性質が強いのはt1だけではない。

 

我々が内に持つ清らかさ、内に持つ純潔を信じないために、「良い私と悪い私」にこんなにも多く対峙するようになり、それから「悪い私」を他者に投影し、自身の責任から免れ、自身の罪責を緩和する。これにより、この世界と対立することになる。まさにそのために、我々は危険に囲まれているのである。

 

由于我们不相信我们内在的圣洁、内在的清白,所以我们才会有那么多的自我对(好的我和坏的我),然后才会把“坏的我”投射给他人,去免除自己的责任,缓解自己的罪责,从而会跟这个世界对立,才会觉得我们被危险包围着。

「悪い自分」を他者に投影するかどうかはt1とt6の判別の手掛かりとなるだろうか。

 

それで、根源はどこにあるのか。t6は自身と対立しており、必然的に世界と対立することになる。一方、自身への恐怖は、最終的には世界への恐怖へと変わることになる。

 

所以根源在哪呢?六号人与自己对立,必然带来与世界的对立,而对自己的恐惧,终将变成对世界的恐惧。

根源は「自身への恐怖」でFAらしい。

 

<出典>

zhuanlan.zhihu.com

(2022年1月25日アクセス)